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神社の登記小資料室 熊谷司法書士事務所

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〒995-0112 山形県村山市大字湯野沢2884番地

神社明細帳時代になぜ神社名義で不動産登記ができたのか(私見)

 この点を考えるにあたっては神社を宗教面からも考える必要があると思いますので、少し回りくどいのですが、そこから考えてみたいと思います。
 神道には経典がありませんし、教祖もいません。また天国と地獄もありません。崇拝の対象も自然から実在した人物までいろいろな崇拝対象があります。そして普段朝夕神前で祈るのは国の平安と国民の安泰で、個人の救済を主な目的とするものではありません。自然そのものが教えであり、宗教なのだと思います。
 もちろん古代から神道とその宗教施設は存在しました。それは最初自然の岩や山を直接崇拝するものでしたが、時代が下るにつれて現在のような本殿・拝殿などといった宗教施設が作られるようになっていきます。そして古代の日本政府においてはそういった神々をお祀りすることが政治の一部でした。式内社という言葉を聞いたことがある方もいらっしゃると思いますが、これは平安時代に定められた延喜式という政令に定められた、国が定期的に幣帛を奉り、国の平安と国民の安泰を祈願する神社を指します。また延喜式をはじめ令義解、宣命といった公式な書物の中にも様々な神事に関する規定が定められていました。古代においては神道は国が神社を通して行う様々な祈願でした。
 その後飛鳥時代に日本に仏教が伝来しました。上記のとおり神道は政府が神社に国家の安泰や作物の豊作、疫病退散等を祈願する祭祀で、個人に対する布教活動は行われていなかったのに対して、仏教は積極的に布教活動を行ったので、その教えは次第に人々に浸透していきました。仏教の教えが広まる中、仏教界の中から、神道における日本の神々は仏教の六道の中の天道にあるもので、仏の教えによって六道から解脱できる存在であるという説(神仏習合)が起こり、時代が下ると本地垂迹説といって日本の神様は仏様が日本の神様となって姿を現しているのだ、という考えが一般化しました。この思想を受けて多くの神社は寺院の管理下に置かれるようになり、江戸時代にはほとんどの神社は寺院のスタイルをとるか、神社の形態をしていても宗教組織としては管理者として僧侶がおり、その下に神職がいる状態でした。なお江戸時代は主に京都の吉田家が全国神社の神職資格の認定や神事作法を司っていました。また江戸時代の寺院は幕府行政の末端機関として現在の市町村市民課・税務課のような役割を果たしていたため、強力な権力を持っていました。
 江戸時代後期、諸外国の圧力が高まり幕府がそれに対抗できないことが明らかになってくる頃、国学者といわれる、日本の古代の姿を取り戻そうと説く人たちが現れました。同時に、諸外国に対抗するためには西洋風の新しい政治システムを導入するしかないと考える人たちが現れました。そして両者の力により明治政府が誕生しました。
 明治政府のスローガンは王政復古でしたが、この復古とは神武天皇の御代を指していました。これは思想面で幕府打倒の一翼を担った国学者たちの思想ですが、その思想は具体性と現実性に欠けるものでした。神話の時代にどのような政治が行われていたのか知る者はなく、わかっていたのは祭政一致、という点だけでした。これを受けて天皇陛下が自ら神事を行い、国と国民がそれを見習って古来の朝廷祭祀を復活する、という政策が実行されました。実行するにあたって全国の神社仏閣が調査され台帳が作成されました。これが神社寺院明細帳です。同時に神祇官以下の国の機関、最終的には内務省が神社で行う祭祀の詳細を規定し、全国の神社に通達を出して国の指示により神社祭祀が行われるようになりました。神社を運営する神職の人事も主催者の発令は国が行っていました。この状態を指して現在よく使われる表現が「明治時代、神社は国の祭祀を行う機関とされた」という表現です。
 一方、明治初期、社寺上知令という政令が発出されました。これは神社・寺院の領地について従来から自己所有のものであったことを証明できない限り、境内地以外の所有地を没収し、没収された領地は国庫に編入されるというものでした。
 また同時期には神仏判然令が発出され、境内地に寺院(神社)が存在する神社(寺院)に対して、境内の寺院を除くか別な場所に移転させ、当時神社を運営していた僧侶に対しては移転した寺院に移るか、還俗して神社の神職になることが求められました。この政令は神社に対しては徹底されましたが寺院に対してはあまり徹底されなかったようです。また当時は寺院が神仏判然令に伴い神社になることも認められていたようです。ですから当時の神社は還俗したお坊さんや、もともとの神職、山伏、村の名主、教育者など多種多様な経歴を持つ神職が存在していました。これらの神職は国の神職養成機関で資格を取った国家資格の神職で、従前に京都吉田家で出した資格は無効とされました。これ等の機関が後に皇學館大學、國學院大學などの神職養成機関となっていくます。また上記の経緯から当時の神社は仏教のような教団組織となることは認められず、経済基盤もありませんでした。
 ところで、明治初期、政府は主にキリスト教に対抗するため神道の国教化(大教宣布)を図り大教院を置いて神職・僧侶等から宣教師(国の職員とされた)を育成して国民教化を行いますが、先述のとおり神道には明確な教義も教祖も経典もないため、結果的には道徳教育となってしまい、学制発布とともに道徳教育は学校教育の1科目とされ、大教宣布は失敗し、大教院も廃止されます。大教院が廃止される少し前に神職は宣教師になることを禁じられ、神社祭祀以外の活動を禁止されました。これにより神職は宣教師という唯一の収入を断たれました。ですから明治以来、神社は国や政府から援助を受けられる大きな神社以外は、職業としては成り立たず、それが今日まで続いているのが現状です。
 一方、寺院ほかの宗教団体を取り締まる法律の制定が何度か議案化されましたが、主に寺院側から激しい反発があり、昭和14年まで制定できなかったといわれています。明治時代の寺院は社寺上知令で経済基盤を失い、江戸時代の支配に対する反発などから檀家が減少するなど、大きな打撃を受けました。しかしながら数百年にも及ぶ歴史を持つ強力な教団組織をもつ仏教教団は海外への布教活動やいわゆる葬式仏教といった新たな道を自ら求めて寺院の立て直しを図りつつありました。こういった中さらに教団を宗教法人として取り締まる法律を制定しようとすれば、激しい反発があるのはある意味当然だったのではないかと思います。昭和14年はヨーロッパで第二次世界大戦がはじまった年であり、日本においても戦時体制強化のためある程度強制的に制定された法律だったのではないかと思います。
 第二次大戦終結後、政教分離の観点から、国が神社を管理することは不適当とされ、神社は宗教法人化されることになりました。宗教法人となった神社はそれぞれが教団組織を持たない個々の宗教団体となりましたが、現状は明治時代と変わりませんでした。このため神社は正月、祭礼行事、結婚式といった様々な神事・行事に活路を求めたり、文化財としての価値に存在意義を求めたりして自立の方向を探っていくことになりました。しかしながら、神事や祭礼行事、文化財等に活路を見いだせなかった神社は現在、街角や田舎の片隅に普段はひっそりとたたずむ神社となっています。
 以上主に明治期からの神道・神社の成立過程を長々と簡単に?述べてきましたが、上記の歴史からすると、宗教法人になる以前の神社の不動産登記は、所有者が法人なのではなく、国=内務省=神社という意味で登記されていたのだと思います。これは現在でも不動産登記情報の所有者欄に国=国土交通省、国=法務省等と記載されている不動産があるのとのと同様です。ただ、当時十数万社あったといわれる神社についてそのすべての境内地について内務省と登記するよりは、神社明細帳に基づいて各神社名を登記したほうが管理面から合理的という判断から、神社名での登記がなされたのではないかと思っています。その傍証となるかわかりませんが、私は戦前の神社の不動産登記には甲区の所有権登記、神社財産登記しか見たことがありません。また表題部所有者欄に神社名のみ記されたものも多くあります。これは法人として積極的に所有権を主張したり、資金融資を受けることを前提としない組織であったことを示しているのではないでしょうか。
 最後は少々強引な論理展開となってしまいましたが、以上の点からすると、私としてはよく使われる「神社は神社明細帳に登載されることにより宗教法人とみなされた」という表現の中で、宗教法人という用語は的確ではなく、現在は独立行政法人としたほうが実態に近いのではないかと考えています。むしろ寺院のほうが「宗教団体法が制定されるまでの間、寺院明細帳に登載されることによって宗教法人とみなされていた」という状態だったのだと思います。また不動産登記についていえば、登記情報に記載された所有者は法人としての神社ではなく、内務省という意味合いで、神社明細帳という政府の管理台帳をもとに神社名が登記されていたのではないかと考えております。
 以上司法書士と神職の両方の経験から私見を紹介させていただきました。何かのご参考になれば幸いです。


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